2010年5月25日火曜日

金沢スタディーツアーリポート

 51516日の「金沢スタディーツアー」のリポートです!
 5月の晴れやかな空のもと、参加者一行は早朝7時半に名古屋を出発!

日朝友好愛知学生の会主催企画第2弾の企画金沢スタディーツアーは、朝鮮植民地支配から100年となる歴史的な年に、日本と朝鮮半島の関係史を学ぶことを目的に、金沢に残る日本と朝鮮半島の関係を示す史跡を辿りました。

2日間に渡るツアーを案内し、講義も行ってくださった北陸大学の田村光彰教授です。

石川県到着後、まず内灘町の内灘海岸に残る米軍内灘試射場跡を見学しました。

ここは、朝鮮戦争時、米軍が使用するために日本国内で生産された砲弾の性能を確認するための試射場が設置されたところで、試射場建設をめぐって内灘住民(しかもその多くは男性が漁に出ている間におもに村で生活を守っていた女性たち!)が体を張った座り込みを行い、鉄道会社の労働者たちは資材運搬のストライキを行うなど、多くの人がそれぞれの立場で生活をかけての反対闘争をくり拡げました。この日本初の大規模反戦闘争である「内灘闘争」には、米軍の朝鮮侵略に反対する在日朝鮮人も、主体的問題としてこの闘争に加わり、また、座り込みをする人々を勇気づけるため朝鮮民族楽器を演奏するなど、様々な形で合流したという記録が残っています。現在は景勝地として有名な内灘海岸には、当時の名残として、今ではひっそりと観測所跡などが残っていました。

内灘砂丘で強風と砂にさらされながら車座になり昼食をとったあと、石川護国神社境内にある「大東亜聖戦大碑」を見学しました。

この碑は、20008月、アジアを侵略したかつての戦争を「聖戦」であったと「顕彰」する碑として「有志」によって建立されたものです。この碑の裏面には大きく「八紘為宇」というかつての日帝のスローガンが大きく刻まれており、これはアジア侵略の事実を否定・美化するとともに、戦争被害者やその遺族の思いを省みず、侵略戦争を肯定するというもので、碑の設置を巡っては多くの異論が起こりました。この碑には多くの「賛同者・賛同団体」が刻印されていますが、中には朝鮮出身の特攻隊員や特攻兵たちのほか「少女ひめゆり学徒隊」や「少年鉄血勤皇隊」、「水戸市立五軒小学校」など、当事者に無断で刻印したものもあるということです。

次に一行は観光名所兼六園にいきました。園内にある朝鮮に所縁のあるという説(学術的には由来が比定されていません)があった海石塔を見学しました。

 その後、高麗文化会館にて田村教授による「日本の『戦後責任』を考える」と題した講義と、懇親会が開催されました。

講義では日本が敗戦後、戦争・戦後責任を果たすことなく、未だ植民地主義が克服されていないという視点から、日本が真の平和国家となるために果たすべき課題とはなにかが具体的に提示されました。

懇親会ではツアー参加者以外にも様々な方が参加され、意見交換や交流が活発に行われました。

なんとここでは田村教授の絶品手作りクリームシチューがふるまわれました!

(その後の宿舎での交流ディスカッションは明け方5時近くまで繰り広げられることになりました・・・!)

1日目のハードスケジュールにもかかわらず、まったく勢いが衰えることなく2日目に突入し、朝9時のさわやかな空気のなかで、一行は野田山の「尹奉吉義士暗葬之地」へと向かいました。尹奉吉は1932429日、日本軍の上海占領と天皇誕生日を祝う祝賀会で爆弾を投じ、金沢で処刑されました。尹奉吉は安重根と同じく日本では『テロリスト』になりますが、決してそうではなく、彼の義挙が、アジアに多くの希望を与えました。ここは、解放後、在日朝鮮人有志によって、処刑された尹奉吉義士の遺骨が発掘され、碑が建てられた場所です。「残念ながら、遺骨発掘、碑の建設と維持に尽力した朴仁祚さんが最近亡くなられたが、今では韓国からの観光者も多く来訪するこの場所を守ってこられた功績は極めて大きい」と、田村教授が解説されました。

次に一行は、「額谷軍需工場跡」へと向かいました。ここはマイクロバスでは通れないほどの狭い山道の先にあるのですが、現地の有志の方々が乗用車を準備してくださり、目的地まで分乗して行くことができました。

 ここは、今では「額谷石切場跡」として知られているように、江戸時代から生活用の石材採掘の場でしたが、第二次大戦終結直前、三菱重工業の航空機エンジン部門の疎開先として突貫工事で軍需工場に改造された場所であり、この工事には多くの学徒、朝鮮人が動員されました。機材の移動だけでもその労力は想像を絶するのですが、内部の大きさも長大で、工事がいか
に過酷な労働であったか想像できました。この工場は、始動することなく「終戦」を迎えたそうです。

最後に訪れた史跡は、兼六園の近くにある「玉泉園」です。ここは、加賀藩士・脇田直賢から4代に渡って作庭された庭園ですが、この脇田直賢とは、1592年の秀吉の朝鮮侵略、いわゆる文禄の役(壬辰倭乱)において、宇喜多秀家と戦い戦死した翰林学士・金時省の遺児・金如鉄であり、そのまま日本に連行された後に加賀藩士になるという来歴があります。この庭園には樹齢330年以上の大きな朝鮮五陽松が植樹されているのですが、彼はどのような思いで作庭したのか、参加者は思いを馳せました。

今回のツアーは学生だけでなく一般からも多数参加され、参加者からは、「金沢を通して、いかに日本と朝鮮半島が深い関係を持っているかを自分の目で見て再確認することができた。これからの朝鮮半島と日本の関係を考えるうえで、示唆に富んだ貴重なツアーだった」などの感想があり、とても有意義なものになりました。

次回の企画は621日のワールドカップ合同応援会です!

http://niccho-aichi.blogspot.com/2010/01/blog-post.html

みなさん一緒に盛り上がりましょう!

(さつき)

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