2010年8月24日火曜日

「寃死同胞慰霊碑」追慕祭とフィールドワーク


9月1日(水)に名古屋市覚王山の日泰寺で強制連行され命を奪われた方々を追悼する追慕祭が行われます。
追慕祭は毎年、碑の建立日の9月1日に行われています。

日朝友好愛知学生の会では植民地支配から現在までの100年の朝鮮半島と日本の歴史を振り返り、北東アジアの平和を考える時間になればと、この日にあわせてフィールドワークをおこないます。
日泰寺には1923年に関東大震災の混乱の中、社会運動家・アナキストの大杉栄、妻の伊藤野枝とともに虐殺された甥(大杉の妹・あやめの子)の橘宗一くん(当時7歳)のお墓もあり、9月16日が命日なので、こちらにもお参りし、当時の社会主義運動家に対する国家の思想弾圧と朝鮮との関係を学びたいと思います。

1910年に起こった大逆事件では、多くの日本の社会主義者やアナキストたちが国家に弾圧され殺されました。当時、日露戦争から韓国併合の流れに反対する社会主義者たちは日帝にとって不都合な存在であり、弾圧の対象となったのです。
大杉栄は大逆事件当時、別件で収監されており、取調べを受けるも嫌疑不十分で不起訴となり難を逃れますが、関東大震災の混乱時に日ごろから社会主義者を国家の害虫だと考えていた憲兵隊大尉甘粕正彦によって虐殺されてしまいます・・・。

「韓国併合」から100年、大逆事件から100年、朝鮮と日本の友好や平和を願う人々、朝鮮人と日本人がともに近代の歴史を学ぶフィールドワークにぜひご参加ください。
連絡先→nicchoaichi@gmail.com
追慕祭は午前11時から正午までですので、橘宗一少年のお墓参りをしてもお昼すぎには解散できると思います。

(さつき)

2010年8月20日金曜日

閑話休題


こうした活動をしているからでしょうか、朝鮮報道に対する知覚過敏ゆえでしょうか、耳に入るもの目に入るものにオッ!?と思うことがままあります。

さて、いよいよ8月25日、日朝友好学生の会訪朝団が出発します。政治家が何もできない・何もしない中、草の根の親善大使として訪朝してきます!余談ですがアントニオ猪木さんも近日訪朝予定のようです。

(ムーン)

2010年8月6日金曜日

久々利地下壕フィールドワークリポート

7月31日に「韓国併合100年」東海行動実行委員会の主催する地下壕フィールドワークに、日朝友好愛知学生の会のメンバーで参加してきました!

【久々利地下壕の概要】
岐阜県可児市の南山・柿下山にある久々利地下壕は、総延長7015mにも及ぶ県下第二の規模の地下壕で、三菱航空機の33の地下工場のうち最大規模のものです。
1944年4月から地形や地質の調査が行われ、12月25日から大林組(大阪本社)の指揮のもと掘削工事が始まりました。1945年8月15日の敗戦により工事が中断された時、全体の70%、2万5110㎡が掘られており、工作機械164台が据え付けられ8日間試運転が行われていました。
日本国男子の徴兵、徴募による戦時下の労働力不足を、「土地調査事業」によって自主渡航を余儀なくされたり、強制的に連れてこられた朝鮮人や中国人によって補いました。あらゆる資源が不足し十分でない栄養状態の中、連日の過酷で危険な労働状況で多くの犠牲者が出たことが予想されます。

可児市郷土館で地下壕研究会の方から説明をしていただきました。

FWの数日前に岐阜県は豪雨で、道が崩れてしまったのでバスではなく徒歩で移動しました。
柿下山のそばには壕内部から掘削された岩の廃棄場所があり、小高い台地のようになっていました。
(指し示している方角にありましたが写ってません。笑)



壕の内部にはいります・・・。入り口からすでに湿気と冷気が漂っています。



入り口からほど近い部分は高さ4.5mと非常に大きな穴が掘られています。
暗いのでライトで照らしましたが湿気がすごく、くもっていて異様な雰囲気です。


おおきな横穴を掘る際には上から掘り下げる「二段堀り工法」が行われます。
通常は上の穴を掘り終わってから下段に掘り下げるのですが、この地下壕では若干中心点をずらしながらも上下同時に掘削するという非常に危険な方法がとられています。
(一歩間違えれば崩れてしまい下で作業している人が生き埋めになってしまいます。)


先に進めば進むほど高さが低くなり、1.5mほどの横穴が続きます。
地面は水とどろでぐちゃぐちゃ、頭上は尖った岩もありヘルメットなしではとても危険です。
みんなかがんだ状態で進みます。


とろこどころに釘が打ち込まれていたり、ダイナマイト用の小さな横穴などが残っていました。


トロッコ用の枕木があったり(足元の棒のようなもの)、当時の作業の様子が生々しく残されています。

こんなに長大な壕を短期間に人力で掘り進めることがいかに過酷な労働であったか・・・。


ライトがないと壕の中は真っ暗です。


日朝友好愛知学生の会のメンバーがNHKから取材を受けました。
どのような番組になるのでしょうか・・・。


1945年の敗戦時の状態で時が止まった地下壕の内部では、戦況が悪化していく中で焦り狂気の只中にある日本の状況が肌で感じられました。
ただでさえ敗戦直前の日本の状況は苦しいものであったのに、朝鮮人や中国人はさらに劣悪な環境の中で危険で無謀な工事に従事させられ、短期間の突貫工事であれだけ広大な地下壕を作ることは想像を絶する過酷さだったと思います。
日本の侵略戦争を肯定し戦争責任を放棄する人達は、実際にこのような過酷な労働に従事しても「強制連行はなかった」「あったとしても人数は僅かだった」などと言えるのでしょうか。
加害性を「記録がないこと」で正当化し、当事者がいなくなることで問題が風化することを望んでいても、「事実」がある限りその記憶は継承されます。もうすぐ敗戦から65年が経過しますが、地下壕は風化することなく「日本の植民地支配や戦争責任の事実」をわたしたちに示していました。
わたしたちも「事実」に向き合い、積み残された問題に対して真摯に取り組んでいかなくてはならないと改めて考えました。
今回の企画者の東海行動実行委員会のみなさんと、詳細な案内や解説をしてくださった地下壕研究会のみなさん、ほんとうに貴重な経験となりました。ありがとうございました!

(さつき)